自笑庵:ともやの時おりおりのメッセージ

HP~スペインの大地とその心を描く~澤口友彌の世界でつづったブログ (2003 - 2011 年)

27. 鍵

買い物に出てマンションの共同玄関に戻ってくると、すぐ真下の5階に住む高校1年になりたてのナタリアがなにやらチャラチャラ鳴らしながら駆け寄ってきて、「トモヤ! 私が開けてあげる!」と誇らしげに鍵束を振って見せてくれた。「おお、ついに鍵をもらえたんやな…。おめでとう、ナタリア!」と悦びを分かちあってやる。

家によりその年齢差はあるものの、子供はみな中学校を卒業するくらいまでは、外に出かけるときも帰宅するときも親によって出入りはコントロールされている。夜は10時までに帰宅することと決められていれば、その門限に遅れたりすればマンションの建物へすら入れてもらえない。最近は少年たちが門限の時間をよく厳守するようになったのか親が甘くなったのか、冬空の下、暗がりの壁にバツ悪そうに立っている子供たちが少なくなった。

鍵を自分の手に握るという意味は、つまり1つの権利を親から与えられた、一人前として認められたということで、これからは自分の家に自分の意思で自由に出入りしてもよろしい、というお墨付きをもらったことになる。日本の鍵っ子のように親の都合であっさりと小学生の我が子に鍵を持たせるようなことはスペイン社会では先ず考えられない事柄といえる。

伝統的に社会不安の絶えないスペインでは、すべての事柄について自分自身で注意し防備を講ずる以外に安泰を保つ方法がない。わしの住む門番つきの共同住宅でも結論的にはまわりは赤の他人で、出入の管理は各家がすべきもの、要は唯一の出入口であるドアがいかに丈夫に出来ているか、鍵を手にするものがいかに責任をもつかにかかってくる。

なぜか景気のよい近年、次々と新マンションが出来上がってゆくが、入居者は大概いの一番に出入口のドアを鋼鉄板入りのものと取り替える。ロック穴が4つ以上、上下にも作動させる構造だと8つ穴のドアもある。もちろん二重ロックの上にチェーンをつけたものが望ましい。ドア1枚が10万円以上というから、ざっと庶民の給料の半分ほどの支出となる。これで安全が買えるのならば安い買い物だが、このドアはレントゲンのフィルム1枚で開けられるとか。上には上があるとあきれ果てる。

プラド美術館所蔵のベラスケス作『ブレダの開城』をここで思い出した。1625年にスペインがオランダのブレダを占領したとき、都市をスピノラ将軍に明け渡す儀式として大きな鍵を手渡している情景の絵である。

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La Rendición de Breda, Velázquez

また、スペインの城下町を歩いてみると紋章に鍵のマークの入ったものに時おり出会う。これは城代家老のポストにあった者が誇りにして刻み込んだものである。鍵が権利や権限の所有のシンボルとなる恰好の例だ。

Blasón

その反面、鍵や錠前という言葉は人間の性悪説を肯定し、すべてを閉じ込めて身動きも出来ないよう、がんじんがらめにするマイナスのイメージがより強いようにわしは思えてならない。しかしスペイン人にはしごく便利な単なる物理的自衛手段としか考えられないようで、そこに心というか倫理的作用が入り込んでこないようだ。このあたりが、あくまでも個人に向けての倫理観のヨーロッパ社会と、集団に向かっての倫理を中心に考えた日本との違いやろうか。

大部分の高層住宅の1階で思い思いに営業している商店は、警報器とともにきわめて頑丈な錠前によって防備を施しているので、開店と閉店時には毎回いちいち丹念に施錠を脱着する。さらにシャッターの上げ下げと、警報器のオン・オフ操作を繰り返す。それだけの厳重を極める以上、店の開け閉めは店主の重要な仕事なわけだ。外出していても大概は店に戻ってやるのが普通で、どうしても都合のつかないときでも家族または信用している親類の従業員にしか絶対に鍵を渡さない。

さも高級そうな毛皮店でハンガーにかけて華やかに陳列してあるミンクのロングコートも赤狐のハーフコートも片袖裏側をのぞいてみると、袖口から襟まで鉄鎖が通されて錠前で柱に固定されている。マンションのロビーの飾りにおいてある電気スタンド、花瓶、クリスマスツリーにいたるまで重々しい鎖がかけられ南京錠で留めてある。自動車のハンドルは凝った鉄棒で施錠され、絵画では○○○まで錠前がぶら下がっているのを見ると、夫が戦争に出るときには奥方に皮か金属製のふんどしを穿かせて施錠してから家を出たという古のヨーロッパ人の思いつきも、なんだかストンと心の底に落ち着いてくるようだ。