自笑庵:ともやの時おりおりのメッセージ

HP~スペインの大地とその心を描く~澤口友彌の世界でつづったブログ (2003 - 2011 年)

25. 通過すればよし

新年おめでとうございます。

新しい年を迎えるとわしなりに心の1つの区切り、節目として所感めいたものを頭だけでまとめてみる癖がある。その中で、いましがた頭に浮かんだやつをたとえ話的に放言させてもらうと、当世はどうも「その時その場だけを通過(クリア)できればよし」という雰囲気でやたらと目まぐるしく動いているだけ、といえるんじゃないかな。

Tablas de esqui Carving

Carving sky (c) Tomoya Sawaguchi 2004

だいぶ古い話になるが、現在40~50代の連中の大学進学用内申書を用意したときのこと。

本人の性格欄にどう書けばよいのか大変迷ったものだった。空言は書けないが出来るだけ好人物に思わせるように表現しなければならん。そんなとき、どうも目立たない存在、特徴の少ない生徒にはとにかく「温厚」と書いた記憶がある。

本当は、自己主張がなく賛否の意思表示もあいまい、全体の流れの中に混ざり込んで流されていく、俗に言うその他大勢。無関心ではないが、その時その場を自分が不利にならないように抵抗なくうまく通過しさえすれば特に矛盾も感じないような人間。そういう者を温厚と表現した。

こんなわしなりの「内申書用温厚人物」がなにか最近特に増えてきたようだ。その上、すでに根づいている欧米的利己主義や打算思考に上乗せして物質過剰からくる精神の空回りというか、連続性のない一過性を繰り返すような生き様から、事を始める前は他人を当てにし世話にもなるが、終われば(通過すれば)まったく無しの礫という現象となってあらわれてきている。

まやかしも含め、うまく丸め込んで辻褄を合わせ、その場を通過できれば可。こんな発想法がまかり通れば「世の中、政治的過ぎる…」といわざるをえない。

そのようなはったり含みの世渡り心は政治の場に任せておけばよいと思う。わしらとしては、お互い痛みを共有することによってまともな人間社会が成り立つという極めて初歩的な道理に立ち戻らないと、欧米の政治家のように損得・駆け引きが見え見えで、この場さえ通過できればと上目使いの醜い顔になってしまうんじゃないか、と気にかかる。

わしも今、そっと己の顔を鏡で見たところだ。生きた人間としての湿度が失せて、剥製化していないか?と。今年も天衣無縫、ありのままの生き様で、イベリアの大地を素直に描き続けよう!と鏡の顔に話しかけた。