自笑庵:ともやの時おりおりのメッセージ

HP~スペインの大地とその心を描く~澤口友彌の世界でつづったブログ (2003 - 2011 年)&その他

22. 酵母菌で発酵してしまった日本人

ユダヤ教の世界では西暦を共通暦Comon Era(=コモンイアラ)という。今年はCE2003年、ユダヤ暦では8月まで5763年、9月以降は5767年に当たる。

そのユダヤ暦の2460年(イスラエルの本による)頃、ちょうどヘブライ人がイスラエル人と呼ばれ始める頃、かれらはモーゼに率いられてエジプトの奴隷生活から別れを告げた。そのときモーゼは「酵母の入っていないパンと苦菜を持って」脱出するように指示をしたと出エジプト記に出ている。

ユダヤ教と兄弟関係にあるキリスト教、とくにカトリックにおいては、このモーゼの粗末な食事と反エジプト思想(エジプト人は発酵したパンを食べていた)を追想してか、なぜか発酵という学問が発達しなかった。したがって発酵食品も日本と比べると、チーズなど極めてわずかしかない。

それに苦菜の「にがい」ということが、カトリックでは一種の罰と解釈されるようになったためか、西洋人に苦味は嫌われもの。つまり味とは、甘い・酸っぱい・辛い・塩辛いの4つしかないわけやな。苦味を味覚としてもっていないわけではないようやが、例えば胃薬ひとつとっても、スペインではどんなメーカーのものでも甘く仕上げてあって、それこそわしには苦手やねー。

苦味を加えた五味が中国料理、それに旨味を加えて六味にしたのが日本料理、と板前さんに教えてもらったことがある。この旨味は何によって得られるかといえば、それはコントロールされた発酵ということになる。

食品が分解し、発酵し、続いて酸化する。その発酵の途中で塩を加えたり加熱したりして発酵を止めてしまう。このようにして魚の腸、イカ、肉のような動物性たんぱく質から各種の塩辛が作られる。沢庵をはじめとした漬物、醤油、味噌、くさや、鰹節…等なども出来上がる。

これらの発酵食品は長く保存が利き、もちろん旨味があり、各種の酵素の働きが消化を助ける。その上、旨味の素であるアミノ酸は脳の細胞分裂を促進する成長酸ともいわれ、頭の働きをよくする。だから理屈でいくと、日本人は頭がよいといっても間違いじゃあないんじゃないかな。

酵母菌を媒体とした発酵作用というものを、わしたちのご先祖さんはすでに奈良時代から経験的に知っておった。実に驚くべき科学的思考をもっていたもんやよ。ヨーロッパ人は自分たちを科学的・合理的な見本のように自負しておるが、さにあらず。わしは27年間この社会にどっぶりと浸かっておって、彼らの口にする科学的・合理的なるものが、非科学的・不合理的な結果を生み出すという矛盾に気がつかざるを得なくなったね。それは書物の上しかり、現実の行為しかり、やよ。

一口に言ってしまえば、彼らの科学性とは個々の分析につきるようやねー。例えば、分析結果として、その食品の中に有効なビタミンなりミネラルなりが含有されておれば、その食品は高く評価される。でも食品単品としては、特別評価されるような物質が分析上検出されなくとも、体内に入って他の要素と作用することによって有効な成分を作り出すような場合は、比較的見落とされておる。こういった見方が、どうもヨーロッパの科学性にまとわりついている思想のように思えてくるんやがなー。またヨーロッパの合理性とは、強い力にはより一層強い力で対抗すればよいという考え方、換言すれば、自然は征服できるという発想で成り立っておるよな。自然は征服できると思い込んで、膨大な資源を消費してゆく西洋文明が生んだ科学技術には大きな欠陥があるのではないか?と人々が考え始めた今、「自然は征服できない。自然には勝てないが生きてゆかねばならない。そのためには自然をよく観察し、調和を保ちながら順応してゆこう」という本来の日本的発想の科学的価値を再認識してもいいんじゃないかな。

ヨーロッパと日本とでは発想の原点が違うこと。日本人の生活から生まれた知恵や、経験が生み出した知恵が、自分たちで科学として理解していなかっただけで、実はすばらしい科学性を持っておったこと。そして、外来文化に触発され、外来文化そのものではなく、かといって伝統的な日本文化でもない新たな独創的な第三の文化、というべきものを生み出す能力は世界でも抜群であること。スペインを主としたヨーロッパ人と付き合っておると、近年とみにこんなことを感ずるようになったわな。

それじゃあ何故このユニークな日本人の独創性が正当な評価を受けないのか。あれこれと理由や原因らしきものを回りくどく指摘するようやが、最後に落ち着くさきは、語学力の不足、外国語が苦手…というものらしい。このことは日本の文化人と呼ばれる人々が何十年間も言いつづけてきて、もはや原則というか、単なる言い回しとしか受け取れなくなってしまったね。正当な評価を受けないというのは、こんな現実から必然的に生まれた結果じゃあないかな。

数ヶ月前、中国人が経営するマドリー市内の皮革製品店で、17、8歳と思われるスペイン娘2人が小物を万引きし、出口のところで若い店員に捕まってな。店員は開口一番、「ここはおまえたちの家ではないのだ!」と、胸を張り、両手を後に組み、娘たちにしっかりと向き合い、威厳をもって叱りつけたものよ。その態度が堂々としているのに肝を抜かれる思いやったねー。というのも、ちょっとかわった商品をおいておるんで、この店には時おり訪れ、店主の息子にあたる例の店員さんとも心安くしておるんやが、本当のところ、彼のスペイン語はでたらめで、ほとんど話せん。その彼が万引き娘たちに浴びせた言葉は極めて短いものやったが、実によく的を得ておったよ。

このハプニングに接して実感したことは、言葉なんて二次的なもの、ということやった。信念、人生観、単にこんな生きざまというものでもいい。自分が何かを持っているという自信さえあれば、片言でも背を伸ばして堂々と応対できるはず。その姿勢だけで、自分の言いたいことの80パーセントは相手に通ずるもんよ。行政改革も必要やろうが、今の日本で一番大切なのは心の改革じゃあないかね。旨味ばかりを追っている間にchuchurrido(=アンダルシア方言で「腐りかけ」の意→過剰発酵)してしまった心に急いで塩でもぶち込むときのように思えるねー。