自笑庵:ともやの時おりおりのメッセージ

HP~スペインの大地とその心を描く~澤口友彌の世界でつづったブログ (2003 - 2011 年)

59. 吐いて吸って生きられる

歳を重ねてくると、人というものは肉体的にはもちろんだが、精神的にも視野が狭まってきて自分でもハッと驚くことがある。車を走らせていても前方ばかり見ているし、車線変更では左右のサイドミラーやバックミラーのうち一つを見逃したままハンドルを切ってしまう。茶碗の尻を皿にコツンとやったり、と自分では「したつもり」なんだがどうも「つもっていない」ことに気づきはじめた。

まあ、この辺の「つもり」は笑って通させてもらうとしても、他人(ひと)の話を聴くのじゃなくて単に聞くだけ。つまり話を耳でとらえて理解し、知った上で受け入れてやるという視野の広い態度から上の空で聞く、ただの音として耳に入れているだけという現象が出はじめたことは、わしにとって重大問題で、歳に甘えて通過させてしまう事柄ではなさそうだ。

先日、80才になる知人が単独でスペインへ来た。その体力には敬意を表したいが、足元をふらつかせながら、人の話を聴くでもなく自分の話したい事柄だけをしゃべくりまくって帰っていった。思考・記憶・判断する能力をつかさどる脳の新しい皮質が麻痺か眠りかけてしまっても、本能や欲望そして内臓をコントロールする古い皮質は眠っちゃいない。そういう老人現象のうしろにある本体を見せつけられたショックは大きかった。

老人は自分の話したい事柄ばかりが頭を占めていて、早くしゃべりたくて仕方がない心境にある。だから相手の話なんかは聴けなくてただ聞いているだけ。そこには対話は成り立たないのだ。

話し好きのスペインの老人が日向ぼっこをしながらなごやかに対話しているように眺められても、お互いに勝手気ままにしゃべっているだけで話がかみ合っていないことが多い。ところがこの対話不成立はただ老人の世界だけはなく、日本社会そのものの世相だということが遅ればせながら地球の裏側でもわかってきた。

たとえば、インターネット上で関心のある話し合いの場にアクセスしてみる。書き込みがあって返信する形式で話し合いが進んでいくわけだが、送信者の呼びかけや問題提起などに返信者は自分の意見を述べたり解答したりするのではなく、まったく別な自分の関心ごとを書き込んでいるケースが非常に多い。

これを見ると、日本の世相そのものが自己中心的で相手の話を聴いてやるゆとり、一歩立ち止まって待ってやる寛容さを喪失してしまい、その上、人間性を商品化してしまった表れのような気がしてならない。

自己主張と上手な話し方ばかりを強調した教育で育った一方通行型の人間は、ひとの話を聴くということにうっとおしさと抵抗さえ感じるようになってしまったようだ。だから人間の生き様にとって必要な話などには肩が凝ってしまい、自然とけむたがり、知らぬ振りをして対話から除けものにしてしまうのだろう。そんな一種の後ろめたさが、明るく、楽しく、ゆったりと…などとメディアでうるさく叫びたてる結果となるのだろうが、その実、呼びかける側も受け入れる側も明るく楽しくしているかというと、どうも口先や格好だけでけじめをつけかねているようだ。

このように「体をなす」はっきりとしたものがない。言葉を変えれば、正体が分からなくあいまいで不思議な人間が増えてくる社会はやはり異常なんだろうな。