自笑庵:ともやの時おりおりのメッセージ

HP~スペインの大地とその心を描く~澤口友彌の世界でつづったブログ (2003 - 2011 年)

60. 外国での日本語

先だってイギリスに駐在している知人の家族とマドリーの定食屋でスペインの田舎料理を囲みながら、話が食住から言葉へと外国居住者の定番の話題となった。そこで感じたことは率直に言って「日本人は日本語に愛着を持っているのかしら」ということだった。

外国に住めば、わが子にその国の言葉をマスターしてもらいたいと親が願うことはしごく当然で好ましいことだ。そして上達したと誇ってもなんとなく納得ができる。ところがその後に「学校は全部英語でしょう。家に帰っても英語が口から出てしまうのよ。日本語は忘れてしまったようで…」と、日本語を忘れたことをさも誇らしげに他人に語る、この心理はわしには理解できない。

たかだか2~3年のイギリス在住で、しかも両親は日本人。その子供が日本語を忘れるとすればその条件はただ一つ。親が日本語を捨てる、もっとやさしく言えば、日本語に誇りと愛着がうすい場合しかないと思う。

周辺を眺めてみても、どうも日本人は外国に住むとあっさり母国語を捨ててしまう傾向が外国人よりも確かに強いようだ。

国際結婚した日本人は男女は問わず相手の母語を話し日本語は捨ててしまう。スペインの知り合いでも相手で日本語を話せる人は皆無だ。2人の間の子供も、母親が日本人の場合は幼児の頃は日本語も話すけれど、小学校に入ると母親とも日本語で話さなくなる。父親が日本人だったら最初から日本語はなしと思えばよい。

ドイツ人とフランス人が結婚してスペインに住んでいる。その子供はドイツ語とフランス語と当然住んでいるスペイン語が使えるのだ。もちろんこの三ヶ国語の類似性は考慮しても、両親がそれぞれの母語を真剣になって子供に教えた結果とはいえるが、この姿は実に生活に緊張感があって頼もしいものだ。

日本国内に住んでいる日本人は、日本語を話すのは当たり前のことで、母国語の価値やありがたさなど考える人はまずいないだろう。そんな日本人が外国に住むと、その国の二つ以上の国語から一つを選択しなければならないことになる。スペインの場合だったらカスティーリャ語バスク語カタルーニャ語から選ぶことになる。言語には強弱の力関係があるので、自分にとってもっとも有利な言語を選べばよいのだが、そこで重要なことは母国語である日本語に愛着と誇りを持っていかに忘れないように努力するか、特に子供にどのように伝えていくかが最大の課題だと常々思っている。

外国には駐在員などの子供に日本語を教える日本人学校は世界の主要都市に開校しているが、その目的は、日本に帰った場合の入試や就職の便宜であって、日本語への愛着と誇りをよりどころにしたものではない。また日本の行政は閉鎖的排他的で包容力がないから、外国人と結婚した日本人の子供は入学できない。そこで日曜学校とか日本語学校とかの塾を立ち上げて日本語を教える。この場合でも、親が日本語に愛着があって子供に習得させるのではなく、日本語を話せる希少性を狙った経済効果が目的のようだ。

母語はその人の全人格の礎石だから誇りを持って大切にしなければならない…と言えば当たり前のことと笑われるかもしれないが、例えば外国で生まれ、その土地の言葉で成長した日本人は、すがたつきの上では確かに日本人だが、ものの見方、考え方、判断の仕方は日本人ではない。そのあたりの理解なしに、外国生まれの二世三世でも等質性の高い国内の日本人同様、察する力や日本の習慣を自然に備えているものと安易に考えてしまうことが国際社会で通用しにくい日本人の体質といえるだろう。

人間は母語で思考し判断を下すものだ。歴史になりきれない近い過去に方言(母語)が表通りを堂々と歩いていた頃は地域の固有の文化はしっかりと伝承されていたが、標準語の浸透で地域性は薄らいでしまった。こんな風に母語が崩れると文化も崩れてしまう。戦後だけを振り返ってみても、日本語なんかやめてフランス語にしろの志賀直哉を皮切りに、エスペラントだ、英語にしろ、ローマ字だ、仮名書きだ…と叫ぶ軽薄者が芽吹いては枯れていったが、今度はひょいと権力を持った軽薄者が出現するかもしれない。

小学校での英語の導入も結構。でも日本語の力がないと外国語も上手にならないのだがなー。