自笑庵:ともやの時おりおりのメッセージ

HP~スペインの大地とその心を描く~澤口友彌の世界でつづったブログ (2003 - 2011 年)

33. 民族と母語

先日とある祝賀会に招待され参加した。ほとんどがスペイン人で大学教授クラス。主賓は受勲した日本人名誉教授。およそ凡爺にはこのような会は性分に合わず、できるだけ辞退することにしている。

だがこの名誉教授とはかれこれ25年以上もの付き合いがあり、個人的にはお互いかなりよく知っているものの、公の場で彼が自分の考えをスペイン語でどんな風に表現するか、その思考法とスペイン人の中での行動に興味を誘われた。もちろん素直に「おめでとう」とも言ってやりたくて出席した。

彼は30年以上スペイン語でスペイン人に教え、奥さんはスペイン人。娘さんたちはスペイン語しか話さない。もちろん仕事の関係上、スペイン国籍に移しているから政治的には日本国民ではない。そこで凡爺は最近、民族をどう判定したらよいのか少なからず迷っている。

彼の場合、日本の大学を卒業し、しばらく日本でも教師生活を過ごしているから母語は日本語なんだが、日本へはほとんど出かけないし日本への興味も薄い。スペイン語で生活し、身振り・態度・ものの考え方や感じ方、性格すらスペイン国民らしきものが身についてしまっている。

自分を成長させてくれる言葉、ものを考えるときの言葉。そんなものを母語とすれば、彼の場合、なにか母語を2つもったような中途半端な日本民族と呼べるかもしれない。

日本で中学卒まで生活していたが、親が移住したので以後スペインに住み大人に成長した人がいるが、同族としては違和感が強すぎスペイン人に限りなく近いようで、凡爺は彼を日本民族ではないと判定している。

cafetera ilustrada 2004taza de cafe 2004

Cafetera y taza de café (c) Tomoya Sawaguchi 2004

これはナショナリズムとかインペリアリズムなどのイズムとは無関係な話である。ある言葉を通して本人を育成させ、あるひとつの文化共同体としてその文化が積み重ねてきた思考法を共有する者たちを同一民族とするならば、思考の固まる年齢以前に国外に住みついてしまった人は、たとえ日本生まれでも日本民族とは呼びがたいし、逆に外国生まれで若年から日本に住み、日本語を話し、日本文化を共有していれば日本民族といえるんじゃないだろうか。

日本国民で日本民族としての国外居住者。日本国民ではなく日本民族としての国外居住者。日本生まれだが日本国民ではなく日本民族でもない国外居住者。こんな3タイプに属する人口は今後ますます増加するだろう。なかでも3番目のタイプは母語としての日本語を捨て、当然日本語によるすばらしい思考と行動を失ってしまうことになる。

民族が違うということは母語・歴史が違うということなんだが、異民族間の相互理解なんて、国外に住んでみて極めて困難な問題であることを身に沁みて体験している。極論すれば、民族が違えば共通点はほとんどないものと凡爺は常々思っている。だがその共通性のなさを踏まえてから地球民族への模索が始められるような気がしてならない。