自笑庵:ともやの時おりおりのメッセージ

HP~スペインの大地とその心を描く~澤口友彌の世界でつづったブログ (2003 - 2011 年)

32. お互い生きるもの

先日サラマンカ大学へ留学希望という知り合いの娘さん一行といっしょした折、コーヒータイムで立ち寄ったエルナンサンチョ村 で挨拶を交わした話好きのおばさんが「4羽生んだんだけど、おととい1羽落として、2羽しかよう育てないんでね、今朝方また1羽落としたのがあるよ…」と鐘楼下の手洗い場のわきへ連れて行ってくれた。

そこにはもう黒い羽が3cmほどに成長した雛が、異様に長い足とくちばしでコウノトリの特徴そのままに、石器時代の壁画のように薄っぺらくなって素焼きタイルの床に貼りついていた。自然の摂理とはいえなにか生きる厳しさを実感として見せつけられてしまった。

この季節、取材先の木陰で描いていると、野鳥の親鳥が無性に落ち着きを失ってバタバタと騒ぎ始めることがある。必死の様相で啼きつづけ、アトランダムに枝・藪・岩と飛び廻っているが、注意深く眺めているとその飛行の軌跡はなんとなく地上の一点に向かっていることが読めてくる。その一点に向かって草原に踏み込んでいき、自分の推測点より一歩以内に雛鳥がいたら「よしよし」。

取材先では旬を感じる楽しみがこんなところにもある。そのほとんどが初飛びで正確に立体空間がまだつかめていないので失敗して落ちてしまった雛なんだ。しかしこれも巣立ちの試練と、絶対に手を出さないことにしている。

よくバードウォッチングとか自然観察の会などのグループが、落ちていた雛を可哀想と思ってか拾って帰っているのに出会う。ちょっと咎め口調で「どこで、何時間前に拾ったの? 鳥の種類はなに? 親鳥が近くにいたでしょう? 餌は何をやるの? 食べさせ方は?…」と矢継ぎ早に質問を浴びせる。拾ってもすぐ元の場所へ戻してやれば親鳥は再び育て始めるが、1~2時間も経過していればもう駄目。それに、目を開くまでに成長した雛は素人では餌付けができないのでほとんど死なせてしまう結果となる。だからわしは落ちている雛は拾わないことが自然保護の基本だと確信している。

なにか最近流行しだした野外活動に乗ったかのような人のなかには、丸きり知識もマナーもわきまえていない乱暴者がいる。ショーを仕込まれたイルカか、物まねをする籠のオームを見る感覚で対応されるから近頃の野鳥はたまったもんではない。ましてや○○追跡調査だの分布調査などの名目で鳥に足輪をはめたり、動物に発信器付きの首輪をはめたりするのがこれまた流行しているが、標識の足輪が肉に食い込んで歩けなくなった鳩を見つけたし、成長した現在では発信器付き首輪が小さすぎて血を流しながらさまよい出た山猫にも出あったことがある。

万物全て神が創りたもうたもの。人間がとやかく言うことは神を穢すこと。
…こんなカトリック的自然観で育ってきた現在の大人たちは一般に自然科学には弱いようだ。それが急に情報化社会に引き込まれ表面だけはつくろっても、どうも基本(努力と時間の必要なもの)の部分を欠き、鳥や動物たちが思はぬ被害をこうむることになってくる。

押し付けの民主主義じゃなくとも、自然に対する押し付けの調和はきっと失敗するだろう。心したいものだ。