自笑庵:ともやの時おりおりのメッセージ

HP~スペインの大地とその心を描く~澤口友彌の世界でつづったブログ (2003 - 2011 年)

31. 差別ってなに?

先日Raulaさんから届いたメールを紹介します。

今日、家のドアの鍵が閉まらなくなり、近所の鍵屋さんに来てもらったところ、なんと外国の人! 外見ではちょっと色が黒くて、目鼻立ちがはっきりとしたおじさんで、アラブ系かな、南米系かな、って感じの人でした。一瞬いろんな事を考えてしまいました。
正直に言うと「大丈夫かな、この人に鍵を見てもらって」って言うのが一番だったんだけど、それって、ほんとにいわれ無き差別ですよね。でも、すごーーーーく丁寧で上品な人で、着いて最初に「XXXロックサービスから参りました」って名刺を渡してくれて、あっという間になおしてくれて、とても親切にどこが悪かったか、何をして直したかを説明してくれました。もう変なことを考えた私が非常に恥ずかしく、深く反省した次第でした。
名刺には「XXXモイセス」って名前が書いてあって、モイセスってモーゼのこと? じゃあ、アラブ系じゃないのかな? でもイラク方面の人だったら、あんまりそういうことを聞いちゃいけないのかな、とか、いろいろ考えたのだけど、思い切って尋ねたらメキシコの人でした(^^)
日本人と結婚したから、もうスペイン語忘れちゃいました、なんていいながら、ほんとに親切な人でした。スペイン語を練習しにウチの店までいらっしゃい、なんて言ってくれたりして、再びさっきの私のものすごい偏見を反省した本日でありました。
でも外国人で鍵屋さんになるには苦労したんじゃないかな、って思います。

Balon Futbol

Balones de futbol (c) Tomoya Sawaguchi 2004

気軽に送ってくれたEメールだったが、彼女は差別なんて用語ではなく、その中身なんだということをよく理解しているようで嬉しかったなあ。

日本人の差別の意識の強さは日頃スペイン人の中に生きていて感ずるんやよ。日常性の中でやれ差別語だ、やれ差別表現だ、とあたかも用語そのものが差別の実態であるかのごとく目くじらを立てて息巻いている人も多いようだが、わしは言葉自体として差別語なんてものは存在しないと思っておる。言葉は人間の意思表示の手段として本質的に自由であり、制限を受ける筋合いのものではないはずである。問題は何を訴えたいのか、言いたいのかの内容。煎じ詰めれば、いわゆる差別語を使って差別をしたいのか、そうじゃないかの心の中身の問題だと思う。

スペイン社会ではネグロ(=黒人)やモーロ(=アラブ人)などと言葉の上では差別語を使っているが、いざ彼らが密入国船で遭難でもしたときには必死になって救助し手当てを施す。ところが日本社会ではどうも言葉だけ使わなければ、禁止すれば、差別はなくしたと思っているようなところがあるようやね。彼女のEメールの最後の一行が端的のそこのところを言い当てているようだ。

3月、帰国したおりに室戸岬へ出かけた道中で「支那そば」の看板をみつけ、うまそうだと立ち寄ったが残念ながら準備中だった。どうも「シナ」は差別語のようだが、わしには親愛感とそばのうまさを感じさせてくれる。これじゃいかんのかな…?

今テレビで米英の兵隊がイラク人捕虜たちに小便をひっかけたり、男の急所を鉄砲を突いたりと、人間とは思えない愚劣さを毎日のように放映している。これじゃあ「黒人」ではなく、「白人」が本物の差別語のように思えてならない。