自笑庵:ともやの時おりおりのメッセージ

HP~スペインの大地とその心を描く~澤口友彌の世界でつづったブログ (2003 - 2011 年)

63. 哲学が泣いている

だからわしはマドリーの街中を歩くことが嫌いになってしまったんだ。それは職務尋問されるからだ。現地の警察官ならいざ知らず、なんと驚くなかれ、日本人の旅行者からなんだ。

マドリーに住んでいるのか。何年になるのか。仕事ですか。家族は。何県の出ですか。なぜスペインに来たのか。マイホームか。スペインが好きか……と矢継ぎ早な尋問を一方的に浴びせられてしまう。自分の都合や利益だけで無理やりに他人の個人情報を聞き出し、すばやく値踏みしたがる無作法さはひょっとしたら東アジア人、とくに日本人の得意技じゃないのかとすら思えてくる。

初対面のヨーロッパ人から上記のような質問を受けた経験はここでの過去30年間の生活で一度も記憶にない。いつだったかスポーツクラブで、たまにはゲームをすることのある共通の知人のことを私のダブルスの相棒に訊いたことがある。
「はっきりは知らないがどうも公務員のようだ。よく水色のシャツを着て来る体格のよい女の子と左利きのフアン君が子供よ。住まいはXXX通りにあるらしい…」

10年来同じ趣味をもった知人のプライベートごとといったらこれだけだった。でもこれでテニスを楽しみ、いっしょにコーヒーを飲みながら相互に固有の人間味を出し合ってつきあうには十分である。

自分の言動には自分で責任をもち、知ったところでなんの協力も手助けもできないような他人のプライバシーには踏み込まないーーーーーこれが個人主義思想の原点なんだ。
ところが日本流ではまるきりこの逆で責任は他人まかせ徳川時代の五人組制の陰険さが悲しき性(さが)となり、他人のプライバシーを掘り出しては土足で踏み込んでゆくような低俗なのぞき趣味からいまだに脱皮できていないんじゃないかとすら思われる。

いま騒がれているウィニーなどによる情報流失事故が好例だ。警察官が犯罪者やその容疑者などの個人情報を持ち出したなかには、他人のプライバシーをより多く知っている、覗き見することができることに一種の優越感と肩身の広さを味わうという日本固有ともいえる前近代的な社会心理が潜んでいる。寂しいけれど認めざるを得ないようだ。

さすがに若者たちにはこの手の人間が少なくなったと喜んでいた。が、これはどうもわしの早とちりだったようだ。

若者たちもまた自分に直接関係のない社会的事象には大人同様関心は薄く、その上、自分のことだけで精いっぱい。ぼく、わたし以外は存在しないような個のなかに閉じこもり、他人のプライバシーすらまで考えや話題が及ばなくなってしまっているようだ。
なにしろちょっと考えることを「哲学する」とか言って、さも蔑む感覚で使うのが若者の間で流行っているらしい。学問としての哲学は無理としても、せめて自分たちがどっぷり浸かっている個人主義とはなにか…ぐらいをほんとうに「哲学する」時間と心の広がりをもってほしいものだ。

以前のヨーロッパ社会ではまず日本、次にアジアという考え方があり、言葉づかいもちがっていた。ところが世界の動きにぎくしゃくとした対応しかできない外交、句点のない文章とおなじでどこまでもダラダラとしまりなく続く事故による安全性の喪失、外国の人たちとコミュニケーションをもつ雰囲気も作り出せない旅行者ーーーーーなどなどのマイナス要因が積み重なり、別格扱いを受けていた日本の存在が2000年代に入りなんやら怪しくなってきて、ここ2年ほどで「アジア」の中に含まれてしまった感がある。

こんなヨーロッパ社会の対応の変化を直接肌に感じながら暮らしていると、やがては「アジアそして日本」と逆転して言われるようになるかもしれない。世界の国々との一体感を構築しながら自己主張を堂々とできるように、おたがい考えることの大切さを今一度確認する必要がありそうだ。

olivar 2006

今日のショット「疲れたな」
高原を走り倒してやっと目的の牧場地帯に着いてみたら、羊くんたちはもうマハーダ Majada(羊小屋)に引き上げたあとだった。でもドングリの影が美しかったので救われた。 しかたない。今日のねぐらまで70km。暮れるまでには辿りつけるだろう。 遠くの点々はオリーブ畑だよ。