自笑庵:ともやの時おりおりのメッセージ

HP~スペインの大地とその心を描く~澤口友彌の世界でつづったブログ (2003 - 2011 年)&その他

68. 続・様変わり(一)出稼ぎ

去る3月15日は、フランコ独裁政権が終わり、民主選挙がはじめて行われてから30周年を迎えた記念日だった。

民主化後の歴代首相3名が、もろもろな都合はあっただろうが、よりによって一人も出席しなかった式典に当時の録画を織り交ぜたテレビ番組があった。白水社の西和辞典一冊を持って、ともに歩んできたこのスペイン30年の現代史を生々しく回想したものだ。

たとえば電話。来西した頃、まともに使える公衆電話がなかった。運よく通ずる電話にたどり着いたおばさんが、受話器の聴き口(耳にあてる方)と話し口の区別ができず、聴き口を耳と口の間でいそがしく移動しながら長話をしていた。そんなマドリーの街角の光景が目に浮かんでくる。ところが今はどうだ。向かい隣の83歳のおばあさんでも個人専用の携帯電話を持っている。携帯を持っていない者はわしぐらいか?!と思うほどに普及してきた。

エコノミスト紙のITインフラ普及度をみるとスペインでパソコンのある家庭は47パーセントとなっている。このような数字は国民性などを考慮して読みかえる必要はあるが、この30年間のあいだでスペインは外見的には丸ごと変わってしまったんだ…とあらためてある種の衝撃に打たれた。

でもこういったことに関しては、情報化も進み Google などで検索すれば世界中の資料が閲覧できるので、そちらに任すことで省略させてもらおう。と同時に、立憲王政や政治についても外者の礼儀として言及は避けたい。その他大きく様変わりした事柄といったら何があるだろう? 、、、ということで、スペイン通信56号以来のこと、「わしの目」を連載でお届けする。

手始めは出稼ぎについてである。スペインは出稼ぎ移民を出していた社会から、受け入れる社会へと変貌したことだ。

来西して間もない頃は、日本から持ってきた自動車運転免許証の書き換えもできず、もっぱら国鉄 RENFE を利用していた。小麦やぶどうの収穫時季になると、国境を越えてフランス方面に向かう列車は出稼ぎ労働者で満員で大混雑し、いつもデッキで立ちっぱなしだったものだ。南のアンダルシア地方発の専用列車のことが新聞で広報され、幾本も準備された上での話だ。

またこれとは別に、スイスを含む西ヨーロッパ諸国への移住的出稼ぎも多く、彼の地の下層労働を支えていた。おかげで西ヨーロッパの旅に出たときには、メイドさんや給仕さんにはスペイン語を話す人によくあたり苦労しなかったものだ。

彼らの送金や出稼ぎ賃金がスペイン経済を支えていたんだ。

ところが打って変わって30年後の現在は、冬を除いてアフリカのギニア湾岸諸国から連日のように船外モーター付の小型木造船で20~100人単位で密航してくる。彼らは出稼ぎ、うまくいけば移住を期待してくるわけだが、受けるスペイン側の態度は変わってきている。初期の頃は拡大する南西部の園芸農業の安い労働力として入国を許可していた。しかしその労働力も瞬く間に過剰となってしまい困り果てた。人道的な立場から、もとの植民地宗主国に引き受けを働きかけてみたりもしたが、埒が明かなかった。

密航者が最も多く上陸するカナリア諸島では、救急援助や食費などで地方財政がパンクしてしまっている。国はついにギニア湾へ監視船団を配置したが、それでも網の目を潜り抜けて続々とやってくるので、飛行機での本国送還も大きな出費となる。なかには送還機の着陸を許可しない本国さえある。

一方、フィリピンや中南米諸国などからは、旧宗主国としての特例として簡易審査でスペインでの居住および労働権を認めたので、人口はこれまた百万単位で急増した。

わがモストレス市は首都マドリーの衛星都市のため、仕事を求めてきた人たちが、アフリカからの移住者も含めて2万人以上になっている。市場に行くと中南米やアフリカ食品を扱う店まで現れてきた。そのおかげ?でわしも珍味にありつけるようになった。なかでも料理用バナナの揚げ物は大好物だ。

ところで適材適所というか、彼らの活躍する仕事場はその本国によって特徴がある。アフリカ出身者は農業とテキ屋中南米は土木建築、工場、ホームヘルパーなど。東欧諸国は牧畜、事務雑役…というようなわけだが、いまのところスペイン人労働者との軋轢(あつれき)や競合はないようだ。

 

付記:国家統計局07年第一四半期の資料によると、移民新規雇用率は全雇用者の76パーセント