自笑庵:ともやの時おりおりのメッセージ

HP~スペインの大地とその心を描く~澤口友彌の世界でつづったブログ (2003 - 2011 年)

42. 狂った普遍性

スペイン社会に反射させて日本社会を眺めてみると、スペインの方が普遍的で日本は特殊な社会といえるだろう。

比ゆ的に一言でいえば「ごめんなさい」と言うか言わないかだ。自分が弁償したり不利にならない失敗なら気楽にぺルドン(=パードン)と口に出す。これは裏返してみれば、自分に害がふりかからない親切ならただの格好づけ慣習としてやっているだけの話。そんな謝罪や親切に直面して、謙虚で控えめだとか礼儀をわきまえているなどとあっさりと判断して、それが大きな誤算だったことに気づくことが日常茶飯事となってくる。

そうなると日本人の風習としての「ごめんなさい」は時により大きなマイナス価値を背負いこむことになってしまう。そして無条件に自分の負けを宣言したことになるわけだ。だから車を追突させても「おまえが急ブレーキを踏んだからだ…」「路面がガタガタだったからだ…」と最後まで100%おまえが悪い、自分の責任ではないのだとこじつけで押し通そうとする。こんなときに日本的習わしで「ごめんなさい」を一言でもどこかで口にしたら最後。全責任はぶつけられた自分に廻ってきてしまう。

ガラスを割る。「ハンマーが石をはねて割ったんで、おれの責任ではない」その上「このガラスは割れる運命がきていたのだ…」とまで平気な顔で言えるのだ、ここでは。

いかにも低俗な例を挙げてしまったが、この屁理屈はイラク戦争をふっかけたブッシュやブレアーもしっかりと持ち合わせており、気おくれした顔つきどころか堂々と突っ張っておる。こんなゴリ押しが普遍性ある世界の通念なんだろうなあ。

日本の数百年に及ぶ庶民文芸のすばらしさ、その的確さには日頃から拍手ものと感銘しているんだが、冗談まじりで、庶民劇に出てくる白い顔は常に善玉という伝統的設定は唯一の誤りだったんじゃあないかな。
数少ない美談があっても、なんやら制限つき美談だったり、やればできる…なんて校歌をもじって気張ってみせても心の改革に真正面から踏み込めない政治。江戸川柳の生々しさを失った社会にささやかに反抗するニート族。

すべての外力をとり除いて完全に変形がなくなって本来の姿に戻るものを完全弾性体という。70半ばの誕生日を迎え、全ての外圧を、それも一理ありと受け入れたかっこうの完全弾性体になれんものかとふと思う。

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どんぐりの実 bellotas (c) Tomoya Sawaguchi 2004