自笑庵:ともやの時おりおりのメッセージ

HP~スペインの大地とその心を描く~澤口友彌の世界でつづったブログ (2003 - 2011 年)

53. 自己流

「あなたのサイトはスペインの自然・地理・歴史・民俗などと絵とはあまり関係のなさそうな内容が多く、自分の絵のことについては言及されていないがなぜですか」

という趣旨の問い合わせをいただいた。ごもっともな意見とありがたく読ませてもらった。

己の感性に任せて自己流の思い込みで描き上げた絵。これを観ていただいた方が自由な感性でその絵をとらえ、思いをめぐらし、絵に語りかけてもらえるならば絵描きとしては最高の悦びだ。したがってわしとしては、直接絵に対面してもらい自由に何かを感じていただくより解説の方法がない。

ただ、わしの感性を生み出してくれる根元は絵とは直接関係のなさそうなところにある。そこで到底説明しつくせないが、お答えとしてわしなりの画布に向かう姿勢を要約し、今回の時おりおりのメッセージとさせていただく。

スペインの風土・歴史・文化・宗教のなかから民家の壁だけを抜き出して描こうとすれば、もちろんのこと地勢・岩石・土壌・植生・気候・水などの自然環境と、それから生まれる哲学・宗教・民族の歴史と文明などすべての環境に関心を抱き理解を深めねばならない。そこではじめてその壁固有の「においと味」が感性として湧き上がってくるもの、と信じて描いている。

その上でスペイン人が自然と身につけている自国の生い立ち、伝統と歴史感覚。言い換えれば、一時代を代表するような古典作品から受ける感覚は中途半端に住みついたわしには言葉では「わかる」と通過させることは可能だが、納得することはいまだに出来ないでいる。たとえば食材・温度・時間がわかれば料理は9割まで出来上がるけれども、最後の1割に相当する味付けによる「うまみ」を引き立てる感覚とコツが納得できていない、ということだ。

○州○県○村の「この壁」を描くためには、上記のような村の風土と歴史・文化の情報を知識として吸収した上で村の翁(おきな)、媼(おうな)に昔話を拝聴する。そこで村を歩き回れば描きたい壁や民家は自然と発見できるものだ。

外国語は「こんにちは」「ありがとう」「さようなら」の3つを知っておれば大丈夫という諺(ことわざ)を地でいっているわしは、幸いにも同時通訳・翻訳がお手のもので、その上おしゃべりな娘が同行してくれるので、日本語で聴きながら勝手にイメージを膨らませておればよいからエネルギーの消耗はうんと助かる。

余談になるが、外国語というやつは腹が減るもんで、こんなもので受け答えしているとターボ車のようにガソリンがすぐ減ってしまう。ヨーロッパ人は日本語は漢字まじりでむずかしいというが、わしにとってはスペイン語はまだマシとしても、英仏語なんて発音どおりに書けない単語だらけ。だから漢字の書き取りと同じに超むずかしい。おまけに習慣としての語句の選択や使い方がわからないので、談笑していたとしても目からほっぺたのあたりの筋肉が突っ張ってしまい、すっかり疲れて腹が減ってくる。

いなか(地方)を自分なりの個性を主張する絵で描き上げようとすることは、自然・社会・環境をできるだけしっかり分析した上で「創造」という再構築の作業となってくる。だからわしの絵は娘との合作といえるかもしれない。

雑誌などで「ある村の朝」「漁村の家並み」なんていう抽象的題名をつけた風景画が目につく。架空の風景と考えればそれですむのだが、わしの場合、長い時間と空間のあいだを自然と闘いつつも調和を保ってきたその村のその壁に固有の歴史の重さと厚みを感じとらないと気がすまない。そして、住人の生きざまと喜怒哀楽が染み込んだその壁を一度すりつぶし、己の感性で再構築したものを絵として表している。よって、わしにとってはその源となる取材地名と題名は作品の一部となってくる。細かくいえば取材地の犬の種類から蜂の巣のすべてまでが絵に必要な感性の要素になっているわけだ。

以上のようなことで、絵に関係のないような話も絵と対話していただく資料として受け取っていただけると嬉しい。