自笑庵:ともやの時おりおりのメッセージ

HP~スペインの大地とその心を描く~澤口友彌の世界でつづったブログ (2003 - 2011 年)&その他

71. 続・様変わり(四)数をかぞえる

「今日、日本人の旅行者に街で出会ったよ…!」
「何人ぐらい?」
「たくさん muchos だ…!」

来西当時は「たくさん」か「すこし」が数量の表現の基本だった。それぞれ形容詞をつけて「ものすごい数」とか「ほんの少し」などもあったが、「何人か」「何頭か」という具体的な数字は非常にまれにしか耳にしなかったものだ。

わたしたちは日常生活の中で何のためらいもなく10頭ほどとか、200人ぐらいというふうに数字表現ができる。これは寺小屋時代からのすばらしい日本の教育のおかげであると思っている。なにしろ数は抽象的概念だ。牛一頭と木一本のように、まったく異なった事実から共通する「一(いち)」の概念を見出さねばならない。これを会得するには幼少の頃からの、集合数と順序数の結びつきや反復練習の積み重ねが必要がある。

スペインの一般家庭では勉強机がないのがふつうだ。小学生から大学生までサロンのソファで膝の上に本を広げている。こんな環境ではどうしても反復練習の量と時間が不足し、結果として算数・数学が不得意となる。その上、伝統的に長文での表現が多い(たとえば新聞記事などのデータで 57326 を五万七千三百二十六に相当する cincuenta y siete mil trescientos veintiseis と書く)ので能率も悪く、整理する能力が開発されにくい。

ようするに数は数量であって、数字は記号であり文字であることを混同しやすい社会だった。統計表はあっても年度によりその基準が違っていたり、項目にずれがあったりで統計資料としては使い物にならないものが多かった。

ところがコンピュータの普及で外国からの資料がグラフの形で持ち込まれるようになり、その影響がみられるようになった。棒の長さで量を表すこと、時間と量の変化を表す折れ線グラフの抽象的思考にある程度の慣れが出てきた。グラフが日常的に目に入るようになった…これは一大変化といえる。

ただ、このように感覚的につかみやすいグラフに違和感をもたなくなると、グラフを使って意識の誘導が意図的に行われる気配が目につきはじめた。棒グラフを例にとると、原点をゼロとして波線省略をしないのが正確な表示なのにごく一部分だけを表示したり、テレビなどでグラフだけを表示して数値は言葉だけで説明したり、棒の長さと数値が明らかに食い違っている場合もあったりする。
このあたりの意図的操作を見抜けるまで庶民感覚が成熟するには、いま少しかかるだろう。